「ただいま帰りました」
お茶も飲み終わり、これ以上ユーインさんからは何も聞けそうにないなと私が思い始めた頃、玄関が開く音とともに、そんな声がしました。
「お、帰ってきたな」
ユーインさんが浮き浮きした様子で立ち上がります。
何が楽しいのか、鼻歌まで出てきそうな雰囲気です。隣でダグラスさんが、ため息をつきました。
異様な雰囲気です。
変なのはユーインさんだけなんですけれど。
そんな妙な空気の流れる台所に、男の人が入ってきました。
兄の友人だと名乗る最後の一人で、名前は確かリオンさん。
落ち着いた穏やかな口調とは裏腹に、見た目は随分若く、3人の中では一番年下なのではないかと思います。
「おや、お客様でしたか」
その人は、台所にいる私を見て、顔をほころばせました。
優しくて、なんだかどこかで見たことのあるような笑顔です。
「こんにちは、シア殿」
「お邪魔しています」
「リクの妹君なら、大歓迎ですよ」
今までにない対応に、私の顔も緩みます。きっと、今までが普通じゃなかったんだと思います。玄関でほったらかされたり、不審者だったらばっさりやるとか言われてますし。
「で、どうだった? 会ってもらえたか?」
わくわくした様子のユーインさんが、私とリオンさんの間に割ってはいるようにやってきて、そう言いました。
その言葉に、リオンさんが悲しそうに目を伏せてしまいます。
「会うことはできましたが、追い返されてしまいました」
「あー、それは気の毒に」
ちっともそうは思っていなさそうに見えるんですけれど、ユーインさん……。
「大丈夫ですよ、しつこいのが私の取り柄ですから。了承していただくまで、何度でも通うつもりです」
「相手も気の毒に」
ユーインさんの言葉に、リオンさんは笑顔を浮かべました。
見ただけでうっとりとして見惚れてしまうような、綺麗で優しげな微笑みでした。
そうやって笑うと、ますます誰かに似ているような気がします。誰か――そうです。まるで、お兄ちゃんのような。
微笑まれるとほっとするのも同じです。
まったくの他人だし、よく見ると顔立ちだって全然違うのに、不思議だなと思いました。
ぼんやりとリオンさんを見つめていたら、その視線に気がついたのか、彼の顔がこちらに向きます。
「シア殿。今日はどうされたのですか」
お兄ちゃんと似ている笑顔のままだったので、どきどきします。
「もしかして、私たちが兄君の友人としてふさわしいかどうかを、見にいらっしゃったのですか?」
う。私ってば、そんなにわかりやすい行動を取っているんでしょうか。
ユーインさんにも、同じことを言われましたし。
「ああ、そんなに憂鬱そうな顔をなさらないでください。家族のことを心配するのは当然のことです」
丁寧に謝られれば謝られるほど、いたたまれない気持ちになってしまいます。すごく自分が悪い人になった気分です。
「私たちにとってリクは恩人ですから、彼が不利になったり不都合な目にあうようなことは決してしませんから、安心してくださいね。もちろん、恩人の妹君であるあなたにも」
「は、はい」
「では、シア殿。これから、よろしくお願いしますね」
そう言って優雅に身をかがめたリオンさんは、自然な仕草で私の手を取りました。
わけがわからずにいると、物語に出てくる王子様のような笑顔を浮かべたまま、手を唇に近づけて……。
て、手に……。
や、柔らかい感触が……。
えええええ!
「おーい、固まってるぞ」
ユーインさんが私を呼ぶ声に、我に返りました。
「だ、だ、だって! これ、なんなんですか、これ!」
まさか、手の甲に口づけされるなんて、想像もしていなかったです。
というか、ありえないです。
「ん? こういうの知らない? 物語にも出てこなかったか」
「それは、貴婦人とか、高貴な人にすることです! こんな田舎でそんなことしたら、大抵は引きますよ」
「そうなのですか? では、皆様は、ご婦人にはどうやって接しているのでしょう」
真顔で言われても困るんですけど。
「ふ、普通に接してくだされば……って、まさかリオンさんには、これが普通とか?」
助けを求めて視線を動かすと、ダグラスさんは眉間に皺をよせ、ユーインさんは、笑い転げていました。
やっぱり、そうなんですね。リオンさんは素でこういう人。
「悪かった。びっくりするよな」
ようやく笑いを引っ込めたユーインさんが、よしよしと頭を撫でてくれました。嬉しいけれど、これは子供扱いな気がします。なんだか、悔しいです。
「リオン。ここは宮廷でも社交界でもないんだからさ。ちょっとは考えて行動しろよ」
「ユーインのいうとおりだ。驚かせてどうする」
二人に責められても、リオンさんは目を伏せました。
「申し訳ありませんでした」
うう。
申し訳ないというのなら、そろそろ手を離してもらいたいです。
「許してくださいますか。シア殿」
「は、はい。怒っていないですから、手を……」
「そうですか、よかった」
いや、実際はよくないんですけれど。
悪気があったわけじゃないっていうのはわかるから、怒るにも怒れないし。
少しは普通かと思ったら、やっぱりリオンさんも不思議な人だったということなんでしょうか。
ますます、この人たちとお兄ちゃんの関係がわからなくなってきている気がします。
疑問ばかりが増えてきて、私は、大きなため息をつくしかありませんでした。
「ところで、リオン。その荷物はなんなんだ?」
途方にくれている―――というより、まだ頭の中がふわふわしているようだった私は、ユーインさんの言葉で、ようやく、その荷物に目がいきました。
それは、今まで気がつかなかったのが不思議なくらい大きな紙袋です。
「ああ、これですか」
にこやかな笑みを浮かべたまま、リオンさんは置いていた紙袋を持ち上げると、机の上にのせました。
「実は、村の中で、ご婦人方にいろいろ頂いたのですよ」
開いた紙袋の中からは、お菓子やらパンやら瓶詰めの野菜やら、様々なものが出てきます。
あっという間に机の上は、おいしいそうな食べ物でいっぱいになりました。
「またかよ。相変わらずだなあ、お前は」
苦笑しながらも、ユーインさんの手が、焼き菓子に伸びました。
「うん、なかなかうまいな」
瞬く間にお菓子を食べてしまったユーインさんが、しきりに感心しています。匂いと形から、これは西の井戸脇に住むセシアさんが得意としているリンゴ入りのお菓子としか見えないのですが、これを含めた手作りのお菓子類を、全部もらっちゃったということなのでしょうか。
まだ、村の人たち全てと知り合いになったというわけじゃなさそうなのにです。
「す、すごいですね」
思わず口をついて出た言葉に、ユーインさんは肩を竦めます。
「あー、すごくないよ、全然。こいつは都にいたときから、年上のご婦人方の受けがよくてな。口が上手い上に、見た目が好青年なもんだから、行く先々で、おばさま方に贈り物をもらったり、愛の言葉を囁かれ―――」
「ユーイン」
二つめの焼き菓子に伸ばそうとしたユーインさんの手を、リオンさんがぴしゃりと叩きました。笑顔ですけれど、目が怖いです。
「余計なことをしゃべるのは、やめていただけませんか。シア殿に誤解されてしまう」
「いや、誤解じゃないだろう……って、睨むなよ」
さっきの事もあるので、ユーインさんが何も言わなくても、もう十分誤解しているから大丈夫です。
口にはしなかったけれど、心の中でそう呟いてみました。
「シア殿。確かにご婦人たちは私に親切にしてくださいますが、基本的には私は大切な女性には誠実ですから」
そういうことを笑顔で言うあたりが、ものすごく胡散臭いんですれど。
「そうそう。その時に、コーネルさんというご婦人から、お茶会に誘われました」
「お、お茶会ですか?」
何故、お茶会なんて話になっているのでしょう。
いえ、おばさんたちの魂胆は丸わかりです。
きっと、この人たちをお茶会に誘って、根掘り葉掘りいろいなことを聞きだそうとしているに違いありません。
こういう時のおばさんたちの行動力には、目を見張るものがあります。
「ちょーっと待て、リオン。そのお茶会、もしかして出席しますとか言ったんじゃないだろうな!」
ユーインさんは、ものすごく嫌そうです。
隣にいるダグラスさんも、言葉にはしませんが、出たくなさそうな顔をしています。
私も、この立場ならば、おばさんたちのお茶会なんていうものには出たくないと思うでしょう。
ですが。
「ご婦人方のお誘いを、私が断るわけがないでしょう?」
当然の如くそう言ったリオンさんに、他の二人はそのまま力尽きたように肩を落としたのでした。
「お茶会といっても、堅苦しいものではないので、気軽に来てくださいとのことでしたよ」
二人ががっくりした理由がわからないという感じで、リオンさんはそう言いました。
確かに、ここは小さな村ですし、お茶会なんてご大層なことを言っていますが、作法にこだわったり、着ていく服に凝ったりはしないはずです。
「俺だって、宮廷のばあさんたちが開くような堅苦しいもんだとは思ってねえよ! だが、宮廷だろうが、町中だろうが、ああいう女性たちが噂好きなのは、一緒だろ」
その通りですユーインさん。
おばさんたちが、せっかくの話題の元を前にして、お天気の話だの農作物の出来具合だの流行の服の話などをするはずがありません。いろんなことを根掘り葉掘り聞くに違いないのです。
「できれば、私は参加したくないのだが」
小さく控えめな声は、ダグラスさんでした。
あまり表情がない人だと思っていましたが、そんな彼の顔が引きつっているということは、相当お茶会が嫌なのでしょう。しゃべるのも得意そうではありませんし、宮廷では苦労したんじゃないかと想像できます。
「そういうわけにはいきませんよ。ご婦人方は、是非4人で来てくださいとおっしゃっていましたから」
4人。
ということは、おにいちゃんも含まれるということでしょうか。おにいちゃんに関する噂もいろいろと広まっているようですから、その辺りを含めて、おばさんたちには聞きたいことがたくさんあるのでしょう。
考えると目眩がしてきました。
「俺も嫌だぜ。せっかく口うるさい連中から逃げてきたっつうのに、勘弁してくれよ」
ユーインさんは頭を抱えてしまいました。
可哀想ですけれど、どうしてあげることもできません。せいぜい頑張ってくださいと励ますくらいです。
「お、そうだ」
顔を上げたユーインさんは、いいことを思いついたとでも言いたげに目を輝かせていました。その視線は、何故か私の方を向いています。
嫌な予感がするのですが。
「あんたもお茶会に参加しないか」
え。
どうしてそこで私に振るんですか。
「お断りします」
即答です。冗談ではありません。おばさんたちは嫌いじゃないですが、噂話だけは勘弁して欲しいのです。
今朝だって、おばさんたちに捕まって大変だったのですから。
「おばさんたちが招待したのは、4人でしょう。私は関係ありません」
「ずるいぞ、お前」
「どうして、ずるいんですか」
そんなのおかしいです。
横暴です。
「いいじゃないか。一応、関係者だろ」
「どの辺が、どんな風に関係者だっていうんですか」
確かにおにいちゃんと私は兄妹ですが、ユーインさんとは今日ちょっとだけ親しくなっただけのただの兄の友人です。
「恩人の妹だから、俺にとっては関係者ってことで」
「私が恩を売ったわけじゃないですし」
「ケチだなあ」
そういう言い方は、この場合おかしいです。
「ケチじゃないです」
「いーや、ケチだ」
二人で、言い合っていると、横で『いいですねえ』という声が聞こえました。
「二人とも、すっかり仲良くなったんですね。少し羨ましいですよ」
いつの間にか椅子に座り、勝手に自分で入れたお茶を飲んでいたリオンさんの言葉でした。
見るものを骨抜きにでもしてしまいそうな笑顔は、私とユーインさんに向けられ、眼差しも、温かく子供でも見守る母親のようでもあります。
けれども。言っていることはずれています。今までの会話や話の流れのどこをどう見たら、『すっかり仲良くなった』と取ることができるのでしょう。
しかも。
「ユーインは口が悪いですからね。なかなか女性と親しくなれないんですよ。こんなに女性と話すのも珍しいし、よほどあなたが気に入ったんですね」
そんなことまで言い出しています。
「本当に、羨ましい」
「誤解だ!」
「誤解です!」
意図せず重なった言葉に、私たちは顔を見合わせ―――どちらからともなく、深いため息をつきました。
なぜなら、声を荒げた私たちを見てもリオンさんから笑顔が消えていないのです。それどころか、ますます『羨ましい』を連発しています。
この人の態度が素なのか、わざとなのかはわかりません。
ですが。
私もユーインさんも気が抜けてしまって、それ以上言い争う気はなくなっていました。
もしかすると、この中で最強なのは、リオンさんなのかもしれない。
心底そう思った瞬間でもありました。
結局、お茶会の件はうやむやになったまま、私はおにいちゃんたちが住む家を後にしました。
待っていてもおにいちゃんが帰ってこなかったというのも大きな理由ですが、それ以外にも、結論を先延ばしにしようというユーインさんたちの雰囲気のせいだったのかもしれません。
朝を迎え、朝食の準備をしている間も、もやもやした気分は消えませんでした。
私は関係ないし、お茶会になど行くつもりはありませんが、あの人たちはどうするつもりなのでしょう。
心配する必要などないのに、気になってしまって仕方ありません。
結局、私もおばさんたちと同じで、この村にやってきた奇妙な人々のことを知りたいだけなのかも、とさえ思えてきます。
「シア、大丈夫か?」
呼びかけられて、父さんが心配そうな顔をしてこちらを見ているのに気がつきました。そういえば、今日は朝から会話らしい会話もしていませんでした。
こんなことでは、父さんだけでなく、周りに心配をかけてしまうようなことにもなりかねません。
おにいちゃんとその知り合いが村にやってきた日から、日常を崩されっぱなしです。
「大丈夫。ちょっと考えることが多くて、頭がうまくまわっていないだけだから」
普段、あまり何も考えず、脳天気に生きてきたツケがまわってきたのかもしれません。
「そう、だな」
複雑そうな顔のまま、お父さんが歯切れ悪く呟きました。
そういえば、今回の一連の出来事には、お父さんの持っていた『何か』も関わっていたはずです。おにいちゃんが話してくれるまでは聞かないつもりだったから何も言いませんが、やはりすっきりしない原因のひとつは、ここにもあるのかもしれません。
「ふぅ…」
今度はお父さんまで、ため息をつきはじめてしまいました。
原因のきっかけは私なんですけれど、朝だというのに、何だか空気が重くなってきた気が……。
その時でした。
玄関の扉を叩く音に、私は顔を上げました。
こんな朝早くに誰なんでしょう。隣のおばさんなら、玄関からではなく裏口から顔を覗かせるでしょうし、アイリや村人ならば、あんな上品に扉を叩いたりしません。
「どちらさまですか?」
部屋に漂う重苦しい雰囲気を振り払うような勢いで立ち上がると、私は玄関に近づきながら外に向かって声を張り上げました。
狭くて小さな家ですし、開いた窓からこちらの声が相手に聞こえるはずだからです。
客はすぐに反応して、返事をしてきました。
「おはようございます、シア殿」
声はリオンさんのものでした。
扉のすぐ側の小窓から、リオンさんの姿も見えます。
「リオンさん? おはようございます」
玄関の扉を開くと、爽やかな笑顔のリオンさんが優雅に一礼をしました。あいかわらず、私が貴婦人か何かのような態度です。くすぐったいので止めてほしいのですが。
「今日は、どうされたんですか?」
「ええ。用事があるのでお伺いしたのです」
この家にはお父さんと私しかいません。私に用事があるとは思えませんし、一度くらいしか会ったことのない父は尚更です。
「実はですね、あなたの―――」
リオンさんが用件を話しはじめようとしました。
けれども。
「そんな奴は客じゃない。家にいれるな」
突然現れた父さんが、私とリオンさんの間に割ってはいりました。
普段出したことのないような怖い声に、私は驚くと同時に、思わず後ずさってしまいました。怒られた時よりも、ずっとずっと恐ろしい声です。
「何度来たって同じことだ。俺の返事は変わらない」
「ですが…」
「もうこれ以上、うちの家族を巻き込むな」
食い下がるリオンさんに向かって追い払うような仕草をします。
しかし、リオンさんは諦めません。
「私は、あなたに教えを請いたいだけです」
「お前に教えることなど何もない」
これは、いったいどういうことなんでしょう。
もしかして。
ユーインさんが教えてくれたリオンさんの『この村に教えを請いたい奴がいる』っていう相手は父さんなのでしょうか。
でも、父さんは、この村で暮らす普通の人です。村のほとんどの人間と同じように、畑を耕し、そこから取れる僅かな作物と、森で狩ってきた動物の肉などを加工して売ることで生計を立てているだけのはずで、何か人より秀でた特技があるなどと聞いたこともありません。
それとも。
私が知らない何かがあるということなのでしょうか。
お兄ちゃんが持ち出したという何か。
突然やってきた奇妙な人たち。
そして、『教えを請いたい』と言うリオンさん。
一見バラバラのように見えて、実はどこかで繋がっているのかもしれません。
すべての謎を解く鍵は、父さんにあるのでは。
玄関に立ち尽くす父とリオンさんを前に、私はそんなことを思っていたのでした。