『二度と来るな』といって追い出されたリオンさんは、『また来ます』と言う言葉を残し、帰っていきました。
父さんは、仁王立ちのままで玄関を睨み付けたままだし、私はといえば、怖い顔をした父さんを前に、溜息しか出てきません。
どうしてリオンさんにあんな態度を取るのかとは、聞けそうにない雰囲気です。
しばらくそうやって二人して立ち尽くしていましたが、やがて父さんの口からも溜息が漏れました。
この状況をどうすればいいかと悩んでいるようでもあり、何かを言おうとしては止めるということを繰り返しています。
言いたいことがあるならば口にしてほしいとは思いながら、私も何を聞いたらいいのか迷っていました。ただ、互いの顔を眺めるばかりです。
結局、先に視線を逸らしたのは父さんの方でした。
「出かけてくる」
ぶっきらぼうにそう告げると、こちらに背を向けてしまいました。
「え、朝ご飯は?」
作りかけのスープに視線を動かしながら、慌てて尋ねます。
「いらない」
「でも……」
「少し頭を冷やしてくる」
そう言い残したまま、振り返りもせずに、大股で家の外へと出て行ってしまいます。
待って、と言おうとしたのに、口からは何も言葉が出ませんでした。
その背中が、なにもかもを拒んでいるように見えたからかもしれません。
あるいは、遠い昔、似たようなことがあったのをふいに思い出し、急にずきずきと胸が痛んだからかもしれませんでした。
もう、随分前のことのはずなのに、記憶から消えていない、あの日のこと。
母さんが流行病で死んでしまった後、父さんが無口になって、おにいちゃんも笑わなくなって。
おにいちゃんは、それでも私の話を聞いてくれましたが、父さんはぼんやりしていることが多くなり、話し掛けても答えてくれないことが幾度もありました。
私はまだ小さくて、どうしたらいいかもわからず、父さんが苦しそうに溜息をつくのを見た後は、自分から話し掛けることが出来なかったのです。
おいていかないで。
こっちを向いて。
そう言えばよかったのに、口に出来なかったのは、悲しむ父さんを困らせたくなかっただけでなく、我が儘を言う悪い子だと思われて嫌われるのが怖かったからかもしれません。
けれども、あの時は、おにいちゃんがいてくれました。
大丈夫だよって、手を握ってくれたから、悲しいことも辛いことも我慢できたのです。
でも。
今は誰もいません。
おにいちゃんもいなくて、父さんはあの時と同じように何かを悩んでいます。
私はおにいちゃんの代わりに父さんを支えることもできず、こんなところで落ち込んでばかりです。
「……おにいちゃん……」
どうしたらいいのでしょう。
おにいちゃんがいなかったときよりも、ずっと心がバラバラな気がします。
せっかくおにいちゃんが帰ってきて、これからは家族で暮らせると思っていたのに。
母さんはいないけれど、前のように三人で仲良くやっていけると信じたのに。
誰もいない家の中で、泣くことも行動を起こすこともできない私は、あの頃とちっとも変わっていないのかもしれませんでした。
「おい? 大丈夫か」
あたたかい手が、うずくまっていた私の肩に触れました。
ぼんやりとしていた私を気づかうような声に、ゆっくりと顔を上げると、滲んだ視界に、金色の髪と赤い色をした服が見えます。
こんな服を着る人も、こんな鮮やかな色の髪を持っている人も、1人しか知りません。
「……ユーインさん」
無理に笑顔を浮かべようとしたのですが、うまくいきません。
ユーインさんの顔は滲んでいて、どんな表情を浮かべているのかもわかりませんでした。
驚いているに違いないと思っているのに、涙が止まらないのです。
「なんで泣いてるんだ?」
ユーインさんの顔が近くなりました。私と視線を合わせるために、彼がしゃがんだのだと気が付いたのは、彼の手が伸びてきて、私の涙を拭ってくれたからです。
「ご、ごめんなさい。ユーインさん、だ、大丈夫ですから」
「いや、大丈夫に見えねえし」
ごしごしと、ユーインさんが袖口で私の涙を拭いました。そんなに強く擦ったら、綺麗な布地が皺になるんじゃないでしょうか。
「汚れます」
慌てて身を引こうとしたら、ぐしゃぐしゃと頭をかき回されてしまいました。
「気にしない気にしない。洗えば済むし。何があったかわかんねえけど、泣きたいんだったら無理して泣きやむことはないだろ」
「でも…」
「『でも』は無し。ところで、泣かしたのはリオンじゃないだろうな」
「違います」
即答したけれど、原因の一つだったのだろうかと、ふと思いました。確かに、おにいちゃんが帰ってきた頃から父さんの様子は変でしたが、それでも、不機嫌なだけで私を拒絶するようなことはありませせんでした。
でも。リオンさんが現れてからの父さんは、口数も少なくなったし、怖い顔をしていることが多くなっています。
リオンさんが悪いわけじゃないと思うけれど、彼が来なければ父さんがあそこまで頑なな態度なんてとらないのではないかと考えてしまうのも止められません。
リオンさんのせいにしたくない。
おにいちゃんが帰ってきたせいにもしたくない。
だけど。
「リオンさんのせいじゃないと、思うんですけど。本当は、わからないんです」
思わず本音が漏れてしまいました。
「リオンさんと父さんの間に何かあるのか、とか。どうしてリオンさんを嫌うのか」
いっそリオンさんが嫌な人だったら彼のせいにしてしまえるのに、なんて、いけないことまで考えてしまうのです。
「誰も、何も、言ってくれないから、もうどうしたらいいのか……」
おにいちゃんも、父さんも、リオンさんたちも、私には本当のことなど言ってくれません。
時間がくれば教えてくれるのかもしれませんが、まるで取り残されているような気がして、胸のあたりが苦しくなってくるのです。
「私、そんなに頼りないでしょうか。父さんも、おにいちゃんも、どうして何も言ってくれないんですか。心配かけたくない、だけじゃ、嫌なんです」
黙って聞いてくれているからなのか、一度外に出した言葉は、止まりませんでした。
涙も、同じです。
我慢しなければ、と思うのに、どうしても止めることができないのです。
「どうして、こんなことになっちゃったんだろう…」
おにいちゃんの秘密。
父さんの態度。
リオンさんは何を父さんに望んでいるのか。
ユーインさんたちは、本当は何者なのか。
溢れるままに、言葉がどんどん出てきます。
ユーインさんは、そんな私を止めることなく、ただ時折頷くだけで黙って聞いていました。
そして。
いつのまにか背中に回されたリオンさんの手が、ゆっくりとあやすようにさすってくれているのに気がついたのは、思っていたことを全部吐き出してしまった後でした。
「落ち着いたか?」
「……はい」
見ると、綺麗だったユーインさんの上着は私と鼻水でぐしょぐしょなうえに、皺だらけになっていました。
「ご、ごめんなさい! どうしよう」
見るからに高そうな服を汚してしまったことに、今更ながら、血の気が引いていくのがわかりました。
「あー、なんかいろいろ無理する性格だな」
「そんなことないです」
「服は洗えば済むことなんだって」
「でも…」
「でもは無しって、さっき言っただろ」
そう言いながら、ユーインさんは、またその袖で、涙を拭ってくれます。
「俺がしたいって思ってやっていることだから、いいんだよ」
ああ、なんだかおにいちゃんみたいだな、と思いました。
小さな頃、泣きやむまで側にいてくれたときも、こうやっておにいちゃんは私の涙を拭ってくれたのです。
おにいちゃんの服の袖は、土や油で少し汚れてたけれど。それでも、ユーインさんと同じように涙を拭いてくれた手は優しいものでした。
「ありがとうございます。……たぶん、もう大丈夫です」
そうか?と笑って、リオンさんは私の頭をくしゃくしゃとかき回しました。
「実はな。今日ここへ来たのは、あんたの親父さんと話をしてみようと思ったからなんだ。リオンはああ見えて意外に頑固だからな。ややこしい事になってんじゃねえかって心配してたんだよ」
案の定だ、と言って、ユーインさんは苦笑しています。
そういえば、自分のことに一生懸命で、何故ここにユーインさんがいるのか考えもしませんでした。
そもそも、おにいちゃんはここにはいないし、用事がなければ尋ねてくるはずもないのです。
「一応、あんたの親父さんに、きちんと話さないといけないことがあるんだ。落ち着いてからって思ってたけど、そうのんびりと待っているわけにもいかないようだしな」
そう言いながら、ユーインさんは立ち上がると私に手を差しのべました。
伸ばされた手に途惑っていると、彼は私の手を掴み引っ張り上げるように立ち上がらせてくれます。
見た目よりも力があるところは、やはり男の人だからなのかもしれません。
「親父さんのこと、待たせてもらってもいいか?」
「……はい」
「さーてと。親父さんいつ帰ってくるかわからねえし、茶でも飲むか? あ、これ、手土産」
そう言って彼が取り出したのは、良い匂いのする茶葉だったのでした。
父さんが帰ってきたのは、いつもの昼食の時間を少し過ぎてからでした。
成り行き上、ユーインさんのご飯も用意することになり、何故か手伝いたがる彼と二人台所に立つはめになったのには途惑ってしまいましたが。
それでも、彼がいてくれたことで、気が紛れたのも事実です。
ユーインさんと一緒に、野菜を切ったり、味付けについて議論したり、都風の変わった調理方を教わったりしているうちに、さっきまでのもやもやした気持ちが少しずつ消えていくような気さえしてきました。
父さんの方も、ユーインさんに対してはリオンさんほどに冷たい態度は取らなかったのでとりあえずほっとします。
ただ、食事の間は無言ではありましたが。
「それで、何の用事だ?」
食事を食べ終わると、まず口を開いたのは父さんでした。
私に話し掛けられたわけではないのに緊張してしまったのは、ユーインさんがここへ来た理由を知っているからでしょうか。彼が何を話すのかはわかりませんが、それが父さんの秘密に関わることなのは間違いありません。
私がここにいてもいいのか、話を聞いても許されるのか――一瞬迷ってユーインさんを見ると、『大丈夫、ここにいろ』と口の形が動くのがわかりました。
父さんも私が席をはずすようには言わなかった、ということも理由にして、私はその場に留まることにします。
何を聞かされることになっても大丈夫、そう私が覚悟を決めた時、ユーインさんが父さんに向かって軽く頭を下げました。
「今日は、突然訪問して申し訳ありません。一度、きちんと話をしなければいけないと思いまして」
口調も、今までと違います。
「いまさらか」
「いまさら、だからですよ」
唇の端をほんの少しだけ上げて、にやりとユーインさんが笑いました。ちょっとイジワルそうな感じです。父さんも気が付いたのか、不愉快そうな顔を隠そうともしていません。
「まずは、リオンのこと、申し訳無く思っています。彼に悪気はないのです」
「悪気がなければ、迷惑をかけてもいいのか」
「そうですね。でも、あなたが怒っているのは、彼がリオン・ティアニー・カヴィルと名乗ったからでしょう?」
カヴィル。
ユーインさんが、その名前を口にしたとたん、はっきりとわかるほどに、父さんの顔色が変わりました。
「その名を口にするな!」
怒声が部屋の中に響き渡りました。
これは、怒り、なのでしょうか。それまでも不機嫌そうではありましたが、ユーインさんに対して声を荒げるようなことはありませんでした。
それが今は立ち上がり、ユーインさんの顔を睨み付けています。握り締めた拳も、震えています。
ですが、ユーインさんは父さんの態度にも動じず、口元に冷めた笑みを浮かべたまま父を見上げ、『あー、もう。落ち着けよ、あんた。娘の前だろうが』とそれまでの丁寧な口調をがらりと変えました。
「東の獅子、とまで言われたあんたらしくねえ。陛下がここにいたら、そう言うんじゃねえ?」
「うるさい」
「それとも、カヴィル家を憎んでいるのか?」
「違う!」
父さんの拳が、テーブルに叩きつけられます。音を立てて動いた食器の音が思いの外大きくて、私は思わず隣に座っていたユーインさんの手を掴んでしまいました。
意味も理由もわからず、ただ恐いと。それだけを感じています。
父さんはまるで仇を前にしているようにユーインさんを睨んでいるのですから。
そんな怯えが伝わったのでしょうか。
ユーインさんの手が私に手を強く握り返してくれました。それだけで、震えが止まります。大丈夫だと、そう言われたようにも思えて。
「リオンは、確かにカヴィルの人間だ。もっとはっきりいえば、いずれ後を継ぐべき立場にある。あいつはあいつなりに、カヴィルを変えようと頑張っているんだよ。あんたみたいな人間を二度と出さないためにな。ただ、庶子だから、何かと立場も弱いんだ」
「庶子?」
一瞬、父さんの顔が歪んだように見えました。何度か口の中で『庶子』という言葉を繰り返し、やがて、その目から怒りのようなものが消えていくのがわかりました。
「あの女と弟の息子ではないのか?」
「ああ」
ユーインさんは、父さんの言葉に少しだけ真面目な顔になりました。
「そっか。あんた勘違いしていたのか。違うよ、あの女の子供じゃない」
「それは……悪いことをした」
父さんの体から力が抜け、倒れ込むように椅子に座りました。
「私は、てっきりあれの子供だと思ったんだ。ルイスの息子だと名乗ったし、あれの妻である彼女はプライドが高いから、庶子など認めないとどこかで思っていたからな」
「おそらく今でも認めてねえよ。リオンを陥れようと必死で、見ていて滑稽なくらいだ」
父さんは考え込むように、『そうそう人間は変わるものでもないな』と呟きました。
「リオンは、小さい頃から周りにあんたのことを聞かされて育ったんだ。だから、少しでもあんたに近づいて、出来れば越えたいと思っているんだよ。あんたがカヴィルに思うところがあるのもわかっている。勝手な願いだとは思うが、断るにしても、一度だけでいい。きちんと向き合って話をしてほしい」
「……できるだけ努力しよう」
そう言いながらも、父さんの目は虚ろで、ここではないどこかを見ているようにも感じられました。
「それから、もうひとつ。ここにいるシアも、すべてを知る権利があると思わねえか?」
「何?」
「シアだけ蚊帳の外ってのも、ひどい話だろ? 事態はいろいろとややこしくなっているし、何も知らないままなのは危険だと思う。ちなみに、リクは話すことを了承したぜ」
危険?
父さん以上に、私は驚きました。不穏な言葉に、さっきから握りっぱなしだったユーインさんの手に思わず力を込めてしまいます。
「あー。そんな顔すんな。今すぐどうこうなるっていうんじゃなくて、もしかしたらって可能性の話なんだよ」
私があんまり不安な顔をしていたからでしょうか。
安心させるような優しい笑みを浮かべると、私の頭に空いた方の手を伸ばし、くしゃくしゃとかき回しました。父さんの方も、大丈夫だというふうに、私の方を見て頷いたあと、ユーインさんに視線を戻します。
「何か、あるのか?」
「まあな。あんたがここへ来て、もう随分立つだろ? ここは王都からかなり離れているし、村を回ってみた感じ、都の情報に関しては皆疎いようだから、今王都で何が起こっているか、あんたも知らないんじゃないかって思ってな」
「俺はただの農夫だよ。王都の事情よりも、明日の天候の方が大事だ」
「ああ、わかってる。あんたがそれを選んだっていうのは、実際に見て理解した。だからこそ、二人には、事実をきちんと知ってほしいんだ」
事の発端は、もう30年以上も前の話になるんだけどな――そうユーインさんは言います。
30年も前といえば、まだ私もおにいちゃんも生まれていない昔です。
その頃の父さんは何をしていたのか。
ユーインさんが言ったこと、父さんの態度、リオンさん達のこと。
それらのことを思い返すと、導かれる答えは見えているような――でも、心のどこかで知りたくないと考えている自分もいます。
それでも、聞くと決めたことですから、いまさら逃げるわけにもいきません。
私はユーインさんの顔をまっすぐに見つめたまま、彼の次の言葉を待ちました。
「今までの話の流れで、なんとなく察しているとは思うけどさ。あんたの親父さん、王都でも名門貴族であるカヴィル家の出身なんだよ」
「貴族?」
何だか、話が大きくなってきています。
というより、父さんが貴族?
目の前の、どこからどうみても農夫という雰囲気の父さんから、貴族らしさというか、品のよさというか、そういうものは全然見て取れません。
「本当なんですか、父さん」
どこか信じられず問い返すと、父さんは、気まずそうに目を逸らしました。
「本当だ」
日焼けした顔も、節くれ立った手も、この村にいる他の人たちと同じです。王都に住んでいて、貴族ではないかもしれないけれど、それなりの地位にいるのではないかと疑っているユーインさんとは、雰囲気もなにもかもが違っています。
「でも、母さんは、この村出身ですよね」
これは間違いないことです。村の中には、母さんの親戚も住んでいますし、先祖代々のお墓もあります。
「ああ、この村で出会って、一緒になった。この家も、元々は彼女が両親と住んでいたものだ」
本当なのでしょうか?
そう思って父さんの顔を眺めれば、深いため息とともに、頷くのが見えました。
「あまり気持ちのいい話じゃないだろうが――何もかも正直に話す」
そう言った父さんの目には、もう迷いはありませんでした。
あれは自分が20を少しばかり越えた頃だったろうか。
父さんは、昔を思い出すように、目を閉じました。
カヴィル家の長男として生まれた自分は、当然のようにそれにふさわしいようにと毎日鍛錬を続けていたのだそうです。王太子と同じ年、同じ師に学んだということもあり、信頼も厚く、将来は輝かしいもので、婚約者もいたのだと。
「俺の母は幼い頃亡くなり、物心がついた頃には、父親は再婚して弟も生まれていた。ただ、俺の母親は貴族といっても名ばかりのものだったからな」
「名ばかり?」
「ああ、いわゆる、金で貴族の称号を買った、成り上がりだ」
えええ。そういうのは、お話の中だけかと思っていました。
実際にそういうことが出来るなんて。
「莫大な金とコネが必要だけどな、結構多いぜ」
ユーインさんの補足は、反対に驚きを増しただけでした。だって、そんなもの、売買するものとは違う気がするんですけれど。
「売るよりも、婚姻関係を結ぶ方が早いって、それを実行する人間もいる。どちらにしても金が必要だけどな」
どろどろした話に、ちょっと眩暈がしました。
ここに住んでいたら、一生知ることがなかったことかもしれません。
「で、元からの貴族連中は、そういうのが気にくわないってわけ」
だから、一部のものは、父さんのことを快く思わなかったのだそう。
嫌がらせなんかも、あったと言います。
「幸い、義理の母も弟も、俺をないがしろにすることはなかったし、それなりに良い関係だったんだ。恥ずかしい話だが……俺が家を出てここに来ることになった根本的な問題は俺にあったんだと思う」
父さんに理由?
思わず、私は父さんを凝視してしまいました。
今ここにいる父さんは、少し恐いところもありますけれど、何か問題を起こしそうには見えません。とはいっても、若い頃のことを知らないわけですから、今の姿だけ見て判断するのはいけないのでしょうけれど。
「俺は、あの頃、少しばかり思い上がっていたんだよ」
苦笑とともに、父さんはそう言いました。
「俺に敵う奴はいなかったから、調子にのっていたというのもあるかもしれない。あの頃の俺は、本当に我が儘で強引だった。時期国王である王太子とも親しかったせいで、意見をするものも少なかったし、偶にまっとうなことを言ってくれた奴の言うこともあまり聞かなかった」
本当に嫌な奴だったと思う――そう笑う父さんの顔には、後悔が見て取れました。
「それは本当は俺の力ではなかったのに、勘違いしていたんだ。だから――俺の婚約者が、俺を早い段階で見限ったのも、当たり前のことかもしれない」
淡々と紡ぐ言葉に、私は違和感を感じました。後悔だけではない、何か。恨みのようでもあったし、悲しみのようでもあったし、あるいは安堵?
「いろいろあって、俺は家を追われ、あちこち彷徨っていたんだが、最終的にここに落ち着いた」
父さんは、当時のことを思い出したくないのか、わずかに顔を顰めました。
いろいろ、というのが具体的にどういうことなのか想像できないけれど、あまり良い話ではないのでしょう。
「あんたの父親が家を追われたのは、半分くらいは、彼のせいじゃなかったんだけどね。婚約者だった女性は野心家で、自分の思い通りになる夫の方がよかった。だから、ヴァージルを嵌めたってのもあるんだ。で彼の弟である男と結婚した」
「そうなの?」
「……付け込まれる隙だらけだったんだよ、シア」
父さんの過去。
私が知らなかったその事実は、呆然とするよりも、どこか遠い世界の出来事のように思われました。
だって、目の前にいる父さんは、日焼けしてまっくろで、服だって小綺麗にしてはいるけれど、何年も着続けてきたもので、手だって、剣ではなく鍬や斧を持つ手です。
どうやっても、都で煌びやかな格好をした父さんなんて想像できません。
「セイラ――母さんと会わなければ、俺はいつまでも我が儘で生意気なままだったと思う」
母さんの記憶は、私にはあまりありません。
優しかったとか、奇麗だったとか、そういう印象よりも、強くてたくましくていつも笑っていた、ということだけは覚えていますが。
「村の連中も、こんな俺を何かと助けてくれた。だから、全てを捨てて、ここで生きていくことにしたんだ」
もう、ここ以外に俺の故郷はないとまで、父さんは言いきりました。
「都に帰る気はないってことだよね?」
父さんがいなくなってしまったら、それこそ、私はこの家で一人ぼっちです。
おにいちゃんが帰ってきたら一人じゃないですけど、今のところ、ここへ帰ってくる気配はありません。
「もちろんだ。ここが俺の家だぞ?」
それを聞いて、ほっとしました。いきなり貴族に戻るなんてことを言われても、困りますし。
なにより、父さんの出自がどうであれ、私はただの村娘です。
父さんが貴族だったからといって、私がそうなるわけではないのです。それがわかっているから――父さんがどこへも行かないということは嬉しくもありました。
「安心しているところ、悪いけど」
私の手に添えられたユーインさんの手に、またわずかに力が籠もりました。
厳しい顔をした彼は、私のことを見ています。
「状況は、あんまりよくないんだよ」
「どういうことですか?」
「国王陛下はね、ずっとヴァージルのことを探していた。それからリオンも。陛下はリオンに目をかけていたからね。ヴァージルによく似ていると」
自信満々に言っていますけれど、似ているんでしょうか? リオンさんは優雅でかっこよくていかにも貴族という感じです。
でも、父さんはとてもそうは見えません。いかついし、かっこいいと言われれば微妙だし。それとも、若い頃はもう少し貴族らしかったとか、あるのでしょうか。
……全然想像できませんけど。
「シア、そんな難しい顔して、自分の父親凝視すんなよ。確かに、俺もこの人の若い頃の姿知らないから、陛下が言うほど似ているかどうかわかんねえけどな」
そんな、呆れられるほど、私は父さんを見てたでしょうか。
確かに、向かい側の父さんは、困り果てたような顔をしていますが。
「リオンとあんたが似ているところがあるとすれば――目の色だ。シアの目も同じだな」
ユーインさんが私の目を覗き込んで、そう言いました。
確かに、私は髪と瞳の色は父さんゆずりです。
この辺りに住む人達も茶色の目をしていますが、私や父さんは、もっとずっと濃く赤みを帯びた色。
リオンさんもそうだったということに、だから懐かしいと思ったのかなとふと考えました。父さんと同じ色の目だから。
「この目を持つのは、カヴィル家の人間だけだ」
「そうなんですか?」
私の問いかけに、父さんも――それからユーインさんも、苦虫をかみつぶしたような顔になりました。
「カヴィルの血を濃く引いた人間だけが、その瞳を持つ。だから――あんたの父さんもリオンも跡継ぎになれたんだ」
「でも、そんな瞳の色だけで、跡継ぎを決めちゃうなんて、おかしいですよ」
「まあ、カヴィルの家の事情はよくわかんねえけどな。古い慣習ってやつだ。無用な争いも少なくなるしな」
「――別に、この瞳を持ったものでなくても、後を継いだものをいる。弟もそうだ」
「でも、そういうときは、大抵一族内でこの目を持つものを奥方に迎えたか、本来継ぐべき跡継ぎがなんらかの事情でいなくなったり死んだりしたか」
すごく嫌な予感がします。
「リクがあんたの息子だってことは、もうばれてる。あんたの居場所もそのうち伝わるだろう。幸い妹がいるということはまだ知られていないが、もしそれがカヴィルの瞳を持っているとしたら?」
「正当な跡継ぎの直系の娘だから、利用価値がある、ということですか?」
私の言葉に、ユーインさんは頷きました。
「そんな。だって、私、本当にただの田舎娘ですよ」
「わかってる。だから、こんなことに巻き込みたくない」
「……巻き込むつもりなのか?」
「そんなわけないだろ。リクだって、そんなこと望んじゃいない。どちらかというと、自分のせいで、あんたやシアに迷惑がかかるのを怖がっている」
そういえば。
ひとつ忘れていることがありました。
この騒動の発端――つまり、おにいちゃんが何故家出したのかということです。
一番大事で、聞きたいことだったのに、すっかり忘れていました。
「おにいちゃんが都へ出たのは、なんのためだったんですか?」
「リクのやつ、自分の父親が分不相応な短剣を持っているのを見つけてさ、それがどうも貴族のものらしいと知って、どういうことなのか調べようと思ったらしいんだ」
「……迂闊だった。あれは、今の陛下から頂いたものだったから、捨てられなかった」
どこかに埋めておけばよかった、などと言う父さんに、私はまた大きな声を上げそうになりました。
国王陛下なんて、遠い世界の人だと思っていたのに。
父さんと親しかったなんてことだけでも眩暈がしそうなのに。
そういう人から貰ったものが、生まれてからずーっとこの家にあったなんて、恐れ多いような知らなくてよかったような。
それを埋めちゃうなんて、もっと恐いような。
「どちらにしても、あんたたちの存在がわかれば、近いうちにカヴィルのものか、陛下絡みの人間がやってくる可能性があるってこと」
「こんな場所にそんな人たちがきたら、大騒ぎになりそうです」
今だって、ユーインさんたちのことで、浮き足立っている状態なのに。
「一応、俺たちがここにいるって大げさにわかるように来たからさ、相手は、俺たちみたいにハデに現れないとは思う」
「こっそり来られても迷惑だが」
そうです。その方が怖いです。村は夜になると人は出歩かないし、武器は扱えても、本物の剣士とかとやりあえるほどの腕の人間は殆どいないのですから。
「心配すんな。何かあったら、ちゃんと俺たちが守るからさ」
「ユーインさん……」
「シアは、どーんと構えてればいいんだ。それに、ここにいるあんたの父さんは強い。多少体が鈍っていたとしても、あんた一人くらい守れるさ」
父さんが強い、かとうかはわかりません。
でも、まっすぐで、何かを決意したような父さんの目と、私を安心させるように微笑むユーインさんの青い目を、私は信じてもいいと思いました。