田舎の人々

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  第七章 欲しがる人々  

 溜息ばかりが、出ます。
 家の裏手の井戸の前で、私は水を汲みながら、沈みがちになる気持ちをどう浮上させればいいのかと悩んでいました。
 側にはおにいちゃんがいて、私が水を入れた甕を家の中に運び込んでくれています。
 昔みたいだけれど、以前と違うのは、もう私は一人でちゃんと水くみが出来るくらい大きくなっているということでしょうか。
 あの頃は、いつだっておにいちゃんの後ろをついてまわって、手伝いをしようと頑張っていた気がします。5年という月日で、私もおにいちゃんも変わりました。
 それでも、やっぱりおにいちゃんはおにいちゃんのままなのが不思議です。
「なんかさ、シア、腕太くなった?」
 場違いなほどにのんびりとした声とともに、袖をまくった腕のお肉をむにゅっと掴まれました。
「な、何するの、おにいちゃん!」
 私だってこれでも年頃の女の子なのに!
「だってさ、別れたときは、小さかったのに」
 おにいちゃんだって。
「おにいちゃんだって、今と全然違っていた。ひょろっとしていたし、弱そうだったもの」
「えー、弱くはなかったと思う。父さんがでかくて強すぎだったんだよ」
 いい大人なのに、子供みたいに口を尖らせて、おにいちゃんが反論しました。
 確かに、父さんは昔から、村の誰よりも大きくて、そして、村を荒らす動物を追い払う時や、狩りをするときは、一番先頭に立っていた気がします。幼い頃、そんな父さんが自慢だったのは、私だけではなかったはずで、おにいちゃんだって、将来は父さんみたいになるんだって、よく言っていました。
「誰よりも強くなってさ、シアや父さんや村のみんなを守りたかっただけなんだ」
 剣の稽古を一番熱心にやっていたのも、おにいちゃんだったことを思い出しました。
 シアのことはおにいちゃんが守るから、大丈夫だって、いつも頭を撫でてくれてことも。
 ずっとそれが続くのだと、あの頃の私は信じていて、だからおにいちゃんがいなくなってしまったとき、とても悲しかったことも。
 全部、全部、いまさらのことのように思い出してしまいました。
「なんだろうな、なんでこんなことになったんだろう。ただ、俺は自分のことを知りたかっただけなのに」
 ぼんやりと空を見ているおにいちゃんは、元気がありません。今だけじゃなくて、もう一度この家に住むことを決めた時から、ずっと。
「父さんが貴族だったなんて、思いもしなかった。持ち出した短剣が随分立派だったからさ、兵士かひょっとすると騎士だったのかもしれなんて思っていたけど」
 私はその短剣を見ていないけれど、おにいちゃんが疑問に思ったのならば、それはただの辺境の村人が持つようなものではなかったということなのでしょう。
 本当にただの好奇心だったのだと、おにいちゃんは言います。
 腕試しも兼ねて、父さんのことを知るために、王都へ行っただけだと。出自などわからなくても構わなかったし、もし王都で働くことが出来れば仕送りも出来る、などと少しばかり甘い幻想も抱いていたのが、おにいちゃんらしいといえばそうです。
「今の父さんを見て、貴族だなんて思う人はいないと思う」
 だから、おにいちゃんが知った事実を、お兄ちゃん自身が想像していなかったのは、私にもわかるのです。
「だよなあ。でも、剣を握ったことのある職業だったんだろうってのは、薄々思っていた。小さい頃、身を守るために、父さんに剣を習っていただろう。あれは我流じゃなかった。あの時はわからなかったけれど、王都に行って、父さんがきちんとした訓練を受けていたんだって気が付いた」
 おにいちゃんは、いつのまにか、自分の掌を見ています。その手は、かつて鍬や斧を握った時よりもずっと硬くてごつごつとしていました。ところどころ豆が潰れて硬くなっているところもあります。
 もしかすると、ものすごく努力して剣を学んでいたのかもしれません。いえ、今だって、たぶん、そうなのです。おにいちゃんが、見た目と違って、真面目で努力家だったのは、誰よりも私が知っています。
「ちゃんと基本が出来ていたんだよな、俺」
 だから、リオンとともに剣の稽古をあらためて始めた時、そう言われて驚いたのだとおにいちゃんは言いました。
「父さんの剣も我流だと思っていたから、深く考えなかったんだけどさ。教えてもらった型の全てがちゃんとしたものだったから、リオンに驚かれたんだよ」
 私も父さんとお兄ちゃんが剣の稽古をしているのは見たことがありましたが、ただ打ち合っているようにしか感じませんでした。教え方が上手だとは思っていましたけれど。
「私たち、父さんのこと、本当に何も知らなかったんだね」
 頷くお兄ちゃんの顔も、沈んでいました。
 私たちが知っている父さんと、遠い昔貴族だった父さん。同じだと言われても、どうしても一緒に出来ないのは、やはりこの村の住人としての父さんしか知らないせいでしょうか。
「父さんがどうであれ、俺はただの平民だよ。お前だってそうだ」
 おにいちゃんの言う通りです。
 どんなに頑張ったって、私たちはただの辺境の村に住む平民以外にはなれないのです。血筋が正しくても、目の色がどうでも、生まれたときから、ずっとそうだったものを、いきなり変えるなんて出来ません。
 今この瞬間から貴族として生きろと言われれば、努力次第でそれらしく見せることは可能だと思います。けれど、生まれた時から貴族として生きてきた人間と、そうでない人間は、その覚悟も品位も所作も、足りない私には無理なのです。
「ちょっと寂しいけれど、静かな村で、畑の世話をしたり、森で獣を狩ったり、そうやって生きていくくらいがちょうどいいんだよ、俺たち」
「うん」
 ずっとそうやってきました。
 街にあこがれがないわけではないし、もし可能ならば、そこで暮らしてみたいとは思うけれど、最後に帰ってくるのは、やっぱりここしかないのです。
「たかが目の色くらいで、優劣をつけるのは、おかしいよ。……俺が変わってやれたらいいのに。ごめんな、シア」
「おにいちゃんが謝ることじゃないよ」
 持って生まれてしまったものは、変えようがありません。
 大丈夫、と、もう何度目かになる言葉を繰り返しました。
 いろんなことに対しての『大丈夫』です。一人じゃないから『大丈夫』なのです。
「こんなこと、早く終わればいいね」
 私の言葉に、おにいちゃんはただ黙って頷きました。


 ユーインさんがやってきたのは、遅めの昼食が終わって、しばらくしてからでした。
「交代」
 なんて、それだけ言うと、おにいちゃんの肩をぽんと叩きました。
「いや、別にまだ交代は早いだろ」
 おにいちゃんが不服そうに言うと、ユーインさんは肩を竦めました。
「やっぱり? でも、シアのことが心配だからな」
 私の方に向き直ると、ぽん、とまた頭を触られました。
 そのまま、するりとおろされた手は、頬の触れ、ほんの一瞬唇をなぞりました。
 お、おにいちゃんだっているのに!
 今のはちょっと、触りすぎじゃないでしょうか
「あのさあ。なんで、ユーインてば、そんなにシアに構う? それに、シアも逃げないし。変だよな」
 案の定、おにいちゃんはしかめ面で、私とユーインさんを見比べています。
「変じゃないだろ」
「変だ。あやしい。何か隠しているだろ」
 近づいてきたおにいちゃんが、ぐりぐりとユーインさんの胸を押しています。
 隠していること、という言葉に動揺しているのがばれないように私はそっとおにいちゃんから目を逸らしました。
「あ、今、シアが目を逸らしたぞ」
 そんな私の様子に目ざとく気付いたおにいちゃんが、今度はこっちに視線を向けます。
「そ、そらしてなんかいないもの」
「声が上擦っているじゃないか」
 上擦ってなんかいないですし、そんなあやしいことも、何もないです。
 おにいちゃんの考えすぎです。そう言いたいのに。
 じいっと見てくるおにいちゃんの迫力に負けて、思わずユーインさんを見てしまいました。
 あれ、どうして、笑っているんですか、ユーインさん。
「まあ、いいじゃないか。親友と妹が仲悪いよりもいいだろ」
「そうかなあ」
「そうそう。ところで、シア。今日のあんたの予定は?」
 まだ何か言いたそうなおにいちゃんの肩をがしがし叩くと、ユーインさんは私を見ました。
「本当は、裏庭の畑の世話をしたいんですけれど、外に出ない方がいいんでしょうか」
 もう少し離れた場所にある大きな畑は父さんが世話していますが、家で食べる野菜や果物を作っている裏の畑は私が世話をしているのです。
 それほど大したものは土地柄出来ないけれど、どこの家にもあるちょっとした庭は、家で食べる分を作るのにはちょうどいいものなのです。
「別にいいんじゃないか。誰かと一緒ならさ」
「そういうものですか?」
「そうそう。襲われる時は、家だろうが、外だろうが、関係ない」
 言われると、そうなのかもしれません。
 それほど広い村ではないのです。村の中ならば、屋外の方が誰かの目がありますし、大声で叫べば誰かが気が付く程度に、家も建っています。
 もちろん、何かがあって村の人が怪我をしたりするのも嫌ですが、どこにいても結果が同じならば、いつもと同じように生活するのがいいのかもしれません。
 ひょっとすると、何もないということもあるかもしれませんし。
「そうと決まれば、みんなで畑に行こう。ユーインも、畑仕事体験したいって、言っていたよな」
「そんなこと言ったか?」
「言った、言った。ほらほら、用意しろよ」
 何故か一番張り切っているのはおにいちゃんで、ユーインさんは苦笑しながらも、おにいちゃんが渡した手袋だとか、篭だとかを受け取っています。
 そんな様子がおかしくて、笑うと、ユーインさんとおにいちゃんは、そうやって笑ってろよと、同時に手を伸ばして頭をぐしゃぐしゃとかき回します。
 本当に、これがずっと続けばいいのにと、私はそんなユーインさんたちを身ながら思ったのでした。


 異変に気が付いたのは、ユーインさんが最初でした。
 しゃがみこんで、野菜についた虫を捕っていた私は、ユーインさんに掴まれた手の強さに、思わず顔を上げます。
「シア、こっちに」
 ユーインさんに引き寄せられるように立ち上がった私は、まわりを見回してみますが、特に変わったような気がしません。
 でも、おにいちゃんが緊張したように同じく周りを見ているから、やっぱり何かあるに違いありません。
「リク」
 ユーインさんの呼びかけに、おにいちゃんも立ち上がると小さく頷きました。そのまま、何も言わず家の中へと入っていってしまいました。
 問いかけるようにユーインさんを見てしまいます。
「俺たちだけじゃ不安だってわかっているからな。人を呼びに言ったんだ」
 その言葉に、私の体はますますこわばってきました。
「どんなことがあっても、俺から離れるな」
「は、はい」
 ユーインさんの左手が軽く私の肩に触れました。そのままかばうように前に出ると、ある一点を睨み付けます。
 裏庭から森へと続く細い道――普段はあまり使わない草に覆われた道の方向です。
「さてと。隠れていないで、出てくればどうだ」
 ユーインさんが呼びかけると、空気が動く気配とともに、木の間から、人が現れました。
 一見すれば、穏やかな田舎のおにいさんという雰囲気ですが、その片手には、細身の剣が握られています。
 それだけでも恐ろしいのに、その人影は、ユーインさんではなく、私をじっと見つめていました。背中に嫌な汗をかきながら、私はそれでも怖いと思っているのを諭されないように足を踏ん張って立っていました。
「……なるほど。彼よりも、こちらの方の血が濃いということか」
 男の目は、私をなめ回すように眺めた後、たったひとつの場所――私の、父さんと同じ色の瞳を見据えたまま動かなくなりました。
「これは、予想外の収穫、と言ってもいいのでしょうね」
「なーに言ってんだか。ここは人の家の敷地内。勝手に入ってくるのはだめだろ」
 どこかふざけたようなユーインさんの言葉に、男は私から視線をはずし、彼の方を見ました。
「これはこれは、ユーイン様。こんなところでお会いできるとは」
 まるで、ユーインさんがここにいることを初めて知ったかのような様子ですが、そんなはずはありません。
 さっきからずっと彼は、私の横にいたわけですから。
「私が用があるのは、そちらの女性です。ユーイン様、あなたには関係ないことでしょう。何も言わずお渡しください」
「お前、莫迦か? 渡してくださいと言われて、はいそうですかって言うわけねえだろ」
「困りましたねえ。ユーイン様は、尊い方ですから、お怪我などさせるわけにはいかないのですが」 
 尊いという言い方に、私は顔をしかめました。
 彼は神官です。確かに神官は皆に尊敬され敬われています。だから、中にはそういう言い方をする人もいますが、男の発音には何か変な含みのようなものを感じました。
 確かに、神官に対して尊い方という言い方をすることはあります。
 たとえば、それぞれの神殿の一番えらい人とか、何か人に讃えられるようなことを為した人とかです。
 ……ただの神官様ではないということなのでしょうか。
「おや、お姫様は、あなたのことを知らない?」
 片側の頬を歪めるようにして、男は笑いました。
 とても、嫌な笑みです。まるで馬鹿にされているような気がすると同時に、何か大事なことを知らされていないという事実に、私は不安になりました。
 もちろん、ユーインさんにもいろいろ事情があって、全てのことを話すわけにはいかなかったというのもわかります。
 でも。
 なんでしょう、この得体のしれない気持ち悪さは。
 ユーインさんに対して、ではありません。
 目の前で薄気味悪く笑う男のせいです。その眼差しには、何も知らない私に対してのさげすみのようなものがありました。
「いいんですか、ユーイン様。本当に何も言わずとも」
「それは、今は関係ない話だ」
 固い声に、男は歪めた顔を私に向けました。思わずユーインさんの影に隠るように後ろに下がってしまいます。
 何故なのか、この人が恐いのです。
 何かを隠しているかもしれないユーインさよりも、数倍恐い。
「それにな」
 ユーインさんが乱暴に私の手を掴みました。
「俺についてのことは、俺自身がちゃんと話すから、誰かに何かを言われる筋合いなんてねえよ」
「次期をあやまると、面倒なことになると思いますけどね」
「そんなのは俺が決めること」
 きっぱりと言い切ったユーインさんの手には力がこもっています。
 それはまるで、自分を信じて欲しいと言っているようでもありました。
「まあ、どちらにしても、俺には関係ないことです。俺にとって重要なのは、雇い主の依頼を果たすことだけ」
 いつのまにか、ユーインさんは空いた手に、剣を持っていました。
 目の前の男と同じように細い剣には無駄な装飾品はついておらず、かなり使い込まれているようにも見えます。
「おやおや、あくまで俺の邪魔をするつもりですね、ユーイン様」
 憐れんだような眼差しに、ユーインさんは、ため息をつきました。
「邪魔、ねえ。ほんと、いつまで自分たちが優位だと思っているんだか」
 そう呟いた時でした。
 ふいに、目の前にいた男が、その場から斜めの方向へと動き、素早く腕を動かしたのです。
 一瞬何が起こったのかわからずおろおろしていると、私たちの前に誰かが飛び出してきて、男に斬りかかったのだとわかりました。
 飛び出してきたのは、漆黒の騎士―――この鎧には見覚えがあります。
「ダグラスさん!」
 呼びかけると、こちらをちらりとみて、頷きました。
「観念しろ。これ以上騎士としての名を辱めるのならば、容赦はしない」
 渋い声で言い放つ彼は、なんだかすごいです。
 ダグラスさんが、いつもの10割り増し格好よくみえます。
「ダグラス、助かった」
「仕方ないだろう。これでも一応私はあなた付きの騎士だったわけだから」
 神官付きの騎士?
 でも、普通の神官に騎士などつきません。神殿付きというのならわかりますけれど。
「あ、あの、ユーインさんて、ものすごく位の高い神官様、なんてことはないですよね?」
 つい不安になって、こういう状況だというのに、思わず聞いてしまいました。
「ダグラス」
 私の様子に気がついたユーインさんが、咎めるように彼の名前を呼びます。
「あ、そうだった。シア殿。このことは、これを切り抜けてから、ユーインを問い詰めてくれ。遠慮することはないぞ。煮るなり焼くなりすればいい」
 珍しく饒舌なダグラスさんですが、表情はまったく変わらず、ただ目の前の男を見ています。
「ユーイン、彼女から離れるなよ。この男の相手は私がする」
 私たちを庇うように前に出たダグラスさんですが、男の方は動じることもなく、やけに楽しそうに見えました。
「最近姿を見ないと思っていましたが、ダグラス殿までまさかこんなところに来ていたとは。……困りましたね。いくらなんでもあなた相手では分が悪い」
 そういうわりには、ちっとも困っているようには見えません。
 なにより、素人の私が見てもどこにも隙がないように見えるのです。
「お前の仲間は来ないぞ。すでに捕まえてある」
「そうですか。それは残念です」
 ダグラスさんの言葉に、男は軽く肩を竦めてみせました。
「あ!」
 ふわり、と風が吹いたようなわずかな空気な揺れを感じた瞬間、まるでその男の人が伸び上がったようにも見えました。
 同時に動いたダグラスさんも、動じることなくその影に向かって剣を振り上げました。
 なんともいえない嫌な音が響き合い、はじかれるように男が後ろに飛んだのが見えます。
 やれやれとでもいいたげに肩を竦めた男は、ダグラスさんがさらに踏み込むと、さらに後方へと距離を取りました。
「逃げる気か!」
 低い声で言ったダグラスさんの方に視線だけ向けると、男は無表情な顔の中、唇だけをつり上げました。
 笑みともとれるそれは、こちらをあざ笑っているかのようで、私は怖くなり、思わずユーインさんの影に隠れてしまいます。
「分が悪いと、言ったでしょう。この依頼を果たすために命をかけるなんて、馬鹿らしい。それに、俺は報酬分の仕事はしたと思いますよ。……ねえ、お姫様」
 最後の言葉は、はっきりとこちらに向けられたものだとわかりました。
「いい報告が出来そうで、嬉しいですよ」
 ふたたび、ふわりと風が舞うように揺れます。男が行動を起こした時と同じ。
「待て!」
 そうダグラスさんが叫んだ時には、もう男の姿はどこにもなくなっていました。
「逃がしてよかったのか」
「よくはないが。いずれは、ばれることだ」
 苦い顔でユーインさんはそう言い、私を見ました。
「怖い思い、させたな」
 そう言われ、引き寄せられて、頭を撫でられて。
 怖かったのは事実だけれど、それよりもいろんなことが頭の中でぐるぐるまわっていて、今頃になって体が震えてきました。
「シア」
 優しく呼びかけられて顔を上げると、真剣な顔をしたユーインさんがいました。
「ちゃんと、話すから。俺のこと」
「……はい」
「だから……」
 ユーインさんが、何かを言おうとした時でした。
「シア!」
 聞き慣れた声がしてそちらを向くと、全速力でこちらに向かって走ってくるお兄ちゃんが見えました。
 父さんとリオンさんの姿はありあません。
「無事だったか!」
 ぐいっとひっぱられたと思ったら、そのままユーインさんから引きはがされ、気がつけばおいいちゃんの腕の中でぎゅうぎゅうと抱きしめられていました。
「おにいちゃん、すごく心配したんだからな! ダグラスに任せたとはいえ、心配で、心配で……」
 大げさすぎだと思います。
「お前が来るのが遅すぎなんだ」
 呆れたような声はダグラスさんのものでした。
 どういうことなのかと首を傾げると、めずらしく苦笑するダグラスさんが目に入ります。
「一緒に走り出したはずなのに、気がつけばお前がいなくなっていたんだ」
 えーと。それはつまり、おにいちゃんの足が遅かった、と。
「いやいや、オレの足の速さは普通だ。決して遅くない。ダグラスが早すぎるんだ」
「あー、確かにダグラスは足が速かった」
 何故か悔しそうに呟くユーインさんは、何かダグラスさんに思うところがあるのでしょうか。彼に向ける眼差しも、どこか恨めしげです。
「とにかく! オレ、ここの状況を知らせるために皆を探したんだ。みつかったリオンと父さん、それからダグラスは見慣れない騎士や兵士と交戦中で、どうしようかと思ったんだけどさ」
「リクの様子をみれば、ユーインたちに何かがあったのだとすぐにわかったんだ。騎士たちの捕縛はほぼすんでいたから、私が一人抜けても問題ないと判断した」
 だからダグラスさんが来たんですね。
「とりあえず、俺はシアと話をする。お前ら、ちょっとあっちに行け。シアもいいな」
 今度はユーインさんに、ぐいっとひっぱられました。
 あっさりとおにいちゃんの腕の中から引きはがされてしまいました。
 強引です、ユーインさん。それに、ものすごくえらそうです。
 ですが、二人ともそれに逆らうこともなく、ヤレヤレとでも言いたげな微妙な顔を浮かべているだけです。
「煮るなり焼くなりお好きにどうぞ、シア殿」
 その言葉、本気だったんですねダグラスさん。
「そうそう、少々のことでは、そいつくたばらないから。後の始末はちゃんとしておくから、ゆっくり話聞いてこい」
 おにいちゃんまで。
 けれども、聞きたいことがたくさんあるのは事実だったので、私は二人に頭をさげて、ユーインさんに手を引かれたまま、その場を後にしたのでした。


 連れてこられたのは、我が家の中。
 何故か、台所でユーインさんがお茶を入れてくれています。私は、自分の家にもかかわらず、お客さんのように椅子に座り、ただその様子を眺めていました。
「ほら、飲めよ」
 差し出され思わず受け取って一口飲みます。よくある安いお茶なのに、とてもおいしく感じられるのは、ユーインさんの入れ方がうまいのか、予想以上に咽が渇いていたのか。
 どちらにしても、ほんのりと暖かいお茶で、落ち着いてきたのは確かです。
 私の様子を見ていたユーインさんは、半分ほどをお茶を飲んだところで、自分も椅子へと座りました。
「まず最初に謝っておくよ。シアに言ってないことがあったのは事実だ」
 私は、手にしていたカップを知らずに握りしめていたようです。わずかに揺れた中身のお茶をこぼしそうになって、慌ててしまいました。
 これから聞くことが怖いのかもしれません。ユーインさんが隠していたことが、とんでもないことだったら、どうしたらいいのかと、不安なのです。
「俺の本当の名前は、アーサラ・ユーイン・エインズワースって言う。……いや、『だった』かな。アーサラの名前は返上したから」
 アーサラ?
 その名前に、私は顔をあげて、ユーインさんを凝視してしまいました。
 アーサラとは、光を司る女神の名前です。普通なら、人には付けないはずの名前。唯一名乗ることが許されているのは。
「………大神官様、なんですか」
 そうなのです。
 この国で一番の勢力を誇り、信者も多い女神アーサラの神殿の頂点に立つ人。
 どうして気がつかなかったのでしょう。
 この国では少ない金の色の髪をしているのに。とても美しい容姿をしているのに。
「元、だよ。今の俺は、ただのユーインだ」
 まっすぐに私を見る目には、強い感情が見えました。まるで、否定される事を怖れるような。
「元々、大神官っていうのは、象徴みたいなものなんだ。ある程度年を取って、容姿や力が衰えてくると、引退して後任に譲る。たまたま俺は力が強かったから、こんな年まで大神官なんてやっていたけどな。本当なら、とっくに引退して、ただの神官か大神官補佐になっているはずなんだ」
 それは、逆にいえば、力と容姿が衰えなければ、いつまでも大神官のままということではないでしょうか。
 そんな人と、あんなことをしてしまったという事実に、私は一瞬目眩がしました。とんでもないことをしてしまった気分と、嘘だといってしまいたい気持ちと。
「で、でも。大神官を辞めても、力が強いというのならば、神殿に残るべきだって……言われますよね」
 強く言えなかったのは、ユーインさんの目が怖かったからです。
「王都へは帰らねえよ。俺はもう神官は辞めたんだ。神殿とは縁を切るつもりで、こっちに来た」
「そんな簡単に、辞められるものなんですか?」
 大神官様っていうのは、神託によって選ばれるって話を聞きました。そういう人が、神官そのものを辞めるって言って、ちゃんと辞められるとも、思えないのです。
「後任に押しつけてきたし、だいたいあそこで神官やっていたら、一生結婚できないんだぜ」
 女神アーサラに仕える高位の神官は婚姻が認められていませんから、確かに結婚したいならば、還俗するしかないわけですが。
「元々、俺は望んで神官になったわけじゃねえ。この髪と力があったから、神殿に連れていかれたけれど、それまでは街の裏でちょっと人には言えないようなことして生きていた。両親の顔も知らないし、どこの生まれかもわからない。名前だって、自分で適当につけたものだ」
 悲観するでもなく、淡々と語るユーインさんの目は、どこを見ているのでしょう。
 私を通り越し、遠くずっと遙か彼方を見ているようにも感じられました。そこにあるのは、育った場所なのか、神殿なのか。
「俺はね、普通に所帯を持って、じーさんになるまでのんびりと暮らすのが夢なんだよ。ずっと、そういうのに憧れていた。叶えるのは困難だって自覚しているし、俺を手放したくない連中が大勢いるのも知っている」
 もしかすると、彼は私が思う以上のしがらみがあるのでしょうか。
「でも、俺はここにいたい。せっかく一緒に幸せになれそうな相手を見つけたのに」
 伸ばされた手が、そっと私の指先に触れました。そのまま指を絡め、自分の方に引き寄せます。
 されるがままになりながら、視線だけはユーインさんに向けていました。いつのまにか、彼の目は私を見ています。
 遠いどこかではなく、目の前にいる私自身を。
「それに、俺はこの地位を持っていてよかったと思う。ただの男だったら、きっとこの先シアを守れない」
 どういう意味なのでしょう。にやりと笑ったユーインさんは、引き寄せた私の手をさらに引き寄せ、口元まで持っていきました。
 あれと思った時には、手の甲にユーインさんの唇が触れて―――え、えええ?
「歴代の大神官の中でも、強い力を持つってされている俺が、カヴィルの娘と結婚すると宣言するんだ。誰にも文句など言わせない。例えそれが国王陛下であってもな」
 まるで、人に命令することになれたかのようなその口調に、思わず目を見張ってしまいました。
 前から少しえらそうなところはありましたが、今の感じは何かが違います。
「俺が怖い?」
 緊張してしまったことがわかったのでしょうか。それとも引き寄せられた指先が震えていたのに気がつかれてしまったのでしょうか。
「わ、わかりません」
 怖いというのとは違う気がします。
「お願いだ、シア。ずっと側にいさせてくれ」
 甘い声でもなく。
 優しい眼差しでもなく。
 ただまっすぐにぶつけてくる感情は、激しいものでした。
「どうか、俺にシアを守る許しを」
 懇願するような眼差しと言葉を無視することなど、私には出来そうにありませんでした。
 例え、ユーインさんがどんな人だったとしても、すでに私は彼に囚われていたのですから。

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