「なんとか結界は補修できそうです。思ったほど悪い状況ではなかったですし。あと何回か通えば大丈夫でしょう」
その日の昼すぎ、森から帰ってきた賢者は、皆を見回しながらそう言った。
道がない場所を通ったというわりには、賢者の服には汚れひとつなく、いつもと変わらない涼しげな微笑を浮かべている。
反対に、随分と疲れた顔をしているのは剣士だった。
「俺は疲れた。こいつが結界を修復している間中、ずーーーっと、魔物を相手にしてたんだ」
ぶつぶつと文句を言う剣士だが、怪我をしているわけでもない。
ちょっとだけ服に泥がついているだけだ。
「アサギさん、ちょっといいですか?」
愚痴る剣士をあっさり無視して、賢者がアサギの方を向く。
「あ、はい。何でしょうか?」
相手が真面目な顔をしているので、アサギは思わず背筋を伸ばしてしまった。
「これをお渡ししておこうと思いまして」
言いながら賢者が差しだしたのは、銀の指輪だった。この辺りでは見ないほど繊細な細工が施してある。
とても高価そうだし、アサギには渡される理由がない。
どうしたらいいのかわからず、賢者を見つめる。
「ああ、これは守護の魔法が掛かっているものなんです。結界と同じような護りの術を施してありますし、あなたに何かあれば私に伝わります。急いで作ったので、強力なものではありませんから、そのうち、きちんとしたものをお渡ししますね」
「守護の指輪?」
問い返したのは、何故それがアサギに必要なのか疑問に思ったからだ。
夕べの話もあるから、嫌な想像をしてしまう。そういうものを渡されるような心配事があるのだろうか。
不安げな顔を浮かべたことに気がついたのか、賢者が安心させるような優しい笑みを浮かべる
「実は、結界を修復したことで、魔物が何か動くかもしれないのです。あなたが1人になった時に何かあってはいけませんからね。そういうものがあった方がよいかと思いまして」
確かに、彼らは結界の修復や魔物を探すことで忙しいだろう。いつもアサギの側についているわけにはいかない。何もないのが一番だが、ここは素直に受け取っていた方が、いいのかもしれなかった。
「それなら、ありがたくお借りします」
あくまで借りるだけだ。
こんな高価なものは、持ち慣れないだけに手元にあるだけで落ち着かない。
「気に入らない」
だが、剣士は不機嫌だ。不服なのは剣士だけらしい。
「お守りなんて、なんでもいいじゃないか。別に、わざわざ、指輪にする必要ないし。それに、いつのまにそんなもの手にいれてたんだよ」
「買いました」
どこで?と思ったのは、アサギだけではなかったのだろう。
賢者以外の人間が、目を丸くしている。
「秘密です」
そのにこやかな笑顔は、一点の曇りもなかった。
さすがの剣士も、反論など出来ないほどに。
「……迫力負けしてますね。それとも遊ばれてるんでしょうか」
思わず呟くと、側にいた勇者が溜息をついたのが聞こえた。
「遊ばれてるんだろう。まあ、あの男に勝てるやつなんて、滅多にいない」
「私も勝てる気がしません」
手の中で指輪を転がしながら、アサギは溜息をついた。
指輪は小さく、ちょうどアサギの左手の小指にはまるほどの大きさだ。
「とにかく、しばらくは気をつけてくれ」
念を押すような勇者の言葉に、『わかりました』と頷く。
とはいっても、アサギは滅多に村から出ることはない。
今の季節、畑の世話もないし、せいぜい村長の家か水くみ場、あるいは自分の家へ移動するくらいだ。
「アサギさん。油断は禁物です」
そういいながら、賢者はアサギの手を取ると、手の平の上の指輪を掴み、そっと彼女の小指にはめた。
「わー、なにしてるんだよ!」
すぐに剣士が飛びついてきて、アサギの手を剣士から奪い取る。
「何って、守護の指輪を嵌めただけですよ?」
「ですよね?」
アサギが頷いたものだから、剣士は衝撃を受けたかのようによろめいた。わざとだとわかっているが、思わず笑ってしまう。
「でも、指輪だよ。ゆ・び・わ! 普通渡すか? いやいや、それを素直に受け取る?」
「別におかしなことはないですよ? それとも、そんなことを考えるとは、あなた自身に何かやましい思いがあるのではないですか?」
あくまでにこやかな賢者の顔は、私は何も悪いことはしていませんというような清々しい。さきほども思ったが、この人を相手にして口で勝つのは無理だろう。
「借りだだけですから、剣士様」
それでもそう言ったのは、剣士が少し気の毒になったからだ。
「とにかく、魔物がどういう行動をとるかわかりません。くれぐれも気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
「とりあえず、手分けしてもう一度魔物を探そう」
勇者の言葉に、残りの3人は頷いた。
アサギも神妙な顔をする。
「皆さん、気をつけてくださいね」
いくら勇者とはいえ、やはり相手は魔物なのだ。強いと知っていても、心配になってしまう。それは、彼らをただの勇者としてではなく、個人として知ってしまったからなのだろうか。
アサギと同じように笑ったり困ったりしている姿を見て、以前のような感情は抱けない。 聞こえてくる悪い評判はあたっていたが、それを差し引いても、彼らを嫌いにはなれなかった。
「大丈夫! ちゃんとアサギのところに帰ってくるよ」
だから、魔法使いの明るい声を、アサギは信じようと思った。