呼び声に気が付いたのは、屋敷の外へ水を汲みに出た時だった。
かすかで、途切れそうではあるが、誰かが彼女の名前を呼んでいる。
だが、今、この場所に人の気配はない。勇者たちは出かけてしまっているし、村人達も必要以上に近づかない。手伝いの女性たちも、この時間は自宅に戻っているはずだ。
だとすれば、誰なのだろう。
聞き覚えのない声だった。
でも、どこか心を惹かれる。
無意識のうちに、体が引き寄せられていくような気がした。
だが、数歩もあるかぬうちに、左手に痛みを感じて立ち止まる。
「あれ?」
自分自身に問いかけるように呟いてしまったのは、アサギの足が水飲み場ではなく村の外へと続く道に向かおうとしていることに気が付いたからだ。
背筋に嫌な汗が流れる。
手に痛みを感じなければ、ふらふらと村の外に出てしまっていたのだろうか。
その時、再び、彼女を呼ぶかすかな呼び声がした。
同時に左の小指がずきりと痛む。
この指輪には、結界と似た守護の術がかけられていると言っていた。だとすれば、警告するように痛みを与える存在が近くにいるのかもしれない。
例えば、勇者たちが追いかけているという魔物。
賢者が結界を修復したことで、何か動きがあるかもしれないとは言っていた。
まさか、ここに?
そう考えて、あわてて首をふる。
もしそうでも、かすかに聞こえるアサギを呼ぶ声の理由がわからない。
痛みのせいでかろうじてここに留まっているが、気を抜くと呼び声に引き寄せられそうになるのだ。
「屋敷に、戻ろう。戻った方がいい」
呟いた声は、震えていた。口に出したのは、そう言って意識をしっかり保たなければ、その場で座り込んでしまいそうだったからだ。
だが。
『ようやく見つけたぞ』
その声と共に現れた存在に、アサギの足は地面に縫い止められたように動かなくなってしまった。
それは、魔物だった。
魔物は血にまみれていた。よく見れば体中に細かい傷が広がっている。
まるで、その魔物を絡め取る網のようにも見える傷は、徐々に増えているようだった。
『アサギ』
外見から想像もできないほどに、美しい声が名前を呼ぶ。
何故この魔物は自分の名を知っているのか。なんのためにここにいるのか。
『こちらにおいで』
持ち上げられた手が、ゆっくりとアサギを手招きする。
動くたびに、その手から血が滴り落ちた。
「どうして……」
結界が貼られているはずではなかったのか。それとも、この魔物は結界さえも破ってきたというのだろうか。
『早くしないと、体が崩れてしまう』
動かないアサギに痺れを切らしたのか、魔物は近づいてきた。
逃げようと頭では思っているのに、アサギの体は固まったままだ。
やがて、アサギの前に立った魔物は、両の手を伸ばして彼女の肩を掴んだ。
動きを封じられたアサギは、真正面から魔物を見る羽目になってしまう。
蒼く硝子玉のように澄んだ目が、アサギを凝視していた。
『ほう、よく熟れているな。あまりにも熟さぬ故、いい加減待ちくたびれていたぞ』
長く細い舌が、アサギの首筋に伸びる。
ざらつく感触と、ぬめりを帯びた涎に、体が硬直した。
『ああ、甘い。やはりこの村の人間は、格別だ』
舐められる度に力が抜けていくようだった。
そして、舐められる度に、目の前の魔物の体から傷が消えていく。
これが、勇者たちの言っていたことだったのだろうか。
魔物が美味だと感じ、その全てが魔物の力になるという体。
『おおっ! 体が癒えていく……』
歓喜にうちふるえる魔物とは反対に、アサギは恐怖のあまり震えが止まらなくなる。
恐い。誰か、助けて。
誰か。そう思ったとき浮かんだのは平凡で目立たない男の顔だった。
どうして彼の顔が浮かぶのだろう。それほど印象深かったのか。
それとも。
「アサギ!」
聞き慣れた声が、ふいに耳に響いた。
それだけのことだったのに、朦朧とした意識がはっきりしてくる。
「アサギ、返事して!」
「……、け、けん…さま」
『聞くな』
魔物の舌が頬を舐める。
『聞いてはいけない。吾の声だけを聞くのだ』
「い、や……」
必死で抵抗しようとするが、体は動く気配もなかった。
このまま、魔物のいいようにされてしまうのか、そう思った時だった。
左手が熱いことに気が付いた。
まるで、指先から燃えているようだ。
無意識のうちに上げられた手が、魔物の体に触れた。
同時に弾かれたように、魔物がアサギから離れる。
よろめいて地面に倒れると思った瞬間、誰かに抱き留められた。
『く……! 守護の術か!』
「そのとおり。勝手にアサギに触るんじゃないってーの。減ったらどうするんだよ」
「け、けんしさま?」
こういう場面なのに、ふざけたことを言う人間は一人しか思いつかない。そう思って、自分を抱き込むように支えている相手を見上げると、やはりそこにいたのは、剣士だった。
「まったく。うろちょろと逃げ回ったあげく、アサギに手を出すなんて、最低野郎だ」
別の声が後方から聞こえた。
言葉使いはよくないが、とてつもなく爽やかな美声は勇者である。
「本当にそうですよ、結界を破ってまで村にやってくるほど、せっぱ詰まっているのでしょうけれど、ね」
「ちょっと、みんな! 置いてかないでよ、こっちはかよわい女性なの、あんたたちみたいな筋肉馬鹿じゃないんだからね!」
賢者と魔法使いの声も聞こえてきて、アサギはほっとした。
もう大丈夫。何故かそう思えてくる。
『くそ、もう追いついてきたというのか。……まあ、いい。傷は癒えた』
そう言うと、魔物は後方に飛んだ。
「アサギのことはまかせたぞ!」
そう言いながら駆けだした勇者たちの姿はあっという間に見えなくなってしまった。
「け、け、剣士様、あ、ありがとうございます…」
呂律が回っていない。
腰も抜けている。
鼻水は出ているし、目も真っ赤だ。
「大丈夫? 怪我はない?」
大丈夫ですと言いたいのに、言葉が出てこない。
ふぇ、とか、ぐじゅ、とかいう変な言葉が、嗚咽の合間に漏れるだけだ。
「うーん。こうやってみると、なるほど22歳って感じだね」
「そ、それ、ど、どういう意味ですか」
「そのままの意味」
絶対誉め言葉ではないだろう。
文句を言おうとしたのに、彼が「遅くなってごめん」と言ったものだから、アサギの目からまた涙がこぼれた。
「こ、恐かったです」
「うん」
「殺されるかと思いました」
いや、違う。
ただ、殺されるという雰囲気ではなかった。肌に触れたぬるりとした感触を思い出す。
「か、体中、いっぱい、触られて……」
「アサギ、大丈夫だから。カークたちが魔物を追いかけていったし、あいつらならあのくらいの魔物に手こずらない。まあ、ちょっとしくじっちゃって、魔物に一旦逃げられたのは失敗だったけど」
「熟すまで、待ってたって……私……」
「あんな魔物の言うことなんか、忘れた方がいい」
剣士の手が、アサギの背中をゆっくりとさすっている。まるで幼い子をあやすような仕種だが、徐々に気持ちが落ち着いてくる。
いろいろ思うところがないわけではないが、剣士は思っていた以上に優しい。
今だって、根気よく彼女が落ち着くのを待ってくれている。
その優しさに甘えそうになるから、アサギは余計に悲しくなった。
彼はいつかいなくなってしまう人だ。
それなのに、このままでいたら、離れたくないと思ってしまうほどには好意を抱いている。
「なあ。やっぱり、俺と結婚しようか」
「はい?」
ようやく涙も止まったというのに、いきなりの剣士の言葉に、アサギは息まで止まってしまうかと思った。
「俺、考えれば考えるほど、あんたみたいな体、好みなんだよな。特にこのあたり」
するりとお尻を撫でられて、アサギはぎゃっと叫んだ。
「その発言と言葉、かなり問題ありと見ましたが!」
「えー、本能だよ。泣いてるの見たとき、結構ぐっと来たしさー」
容赦ない鉄拳が、男の腹に命中したのは、その発言と同時だった。当然避けると思って手加減はしなかったのだが、剣士はそのまま蹲ってしまう。
「え、だ、大丈夫ですか?」
「重症かも。優しく抱きしめてくれないと立てないかも」
お腹を押さえた剣士が、潤んだ目で妙に色っぽく言ってくる。
「……大丈夫のようですね」
殴ったアサギの方が痛いくらいにお腹は硬かった。だから、これは演技だと判断して、アサギは冷たく言い放つ。
「あー、やっぱりなんともないの、ばれちゃった」
悪気のない顔でそう言われてしまう。
「でも、さっきのはホント。魔物にばれちゃったし、アサギを一人でおいとけないし」
「何がですか?」
「アサギがすっかり魔物に好かれる体になっちゃったから。危ないだろ」
「………は?」
「俺がいじくりまわしたから、結果的にいろいろ目覚めて……イテ!」
つい本気で頭を殴ってしまった。
「なんてこと言うんですか! 人に誤解されたらどうするんですか! というか、私が魔物にとって食べ頃になったのって、剣士様のせいなんですか!」
言いながら、あの魔物が『熟す』という意味を考え、ぞっとする。もしかすると、このまま村で一人でいたのなら、起こりえなかったことなのだろうか。
剣士にあわなければ――。
いや、違う。
賢者は結界は弱まっていると言っていた。
だとすれば、遅かれ早かれ同じようなことが起こったのだろう。アサギだけではなく、恐らく他の村人にも。そして、その時には勇者がいてくれるわけではない。
「俺と一緒に来たら、ずっと守ってあげるよ。それこそ、じーちゃんになっても」
「じーちゃんになったら、闘えないんじゃないでしょうか」
「でも、俺が何もしなければ、こんなことにならなかったわけだし。それに戦えなくなっても、魔物除けする方法も知ってるし」
なにせ、俺たち専門家だからと彼は言い切った。
「義務感で守るっていうなら、結構です」
「だから、義務じゃないんだってば。頑固者だなー」
剣士の手がのびてきて、アサギのほっぺたをむぎゅっと引っ張った。
「ナニヒュルンデシュカ!」
だって、アサギが信じてくれないから、と言う。
「一目惚れって言ったはずだよ」
「体にですよね」
「最初はそうだったけど、今は違うよ。体ももちろんだけど、そのたくましそうな性格とか生意気な口の利き方とか、なんだかんだいって俺たちにつきあっちゃうお人好しなところとか、年齢が高く見える辺りとか」
「誉めてません」
「え、全部誉め言葉だけど」
何を言っても無駄な気がしてきた。話せば話すほど、剣士のいいように流されていくような気がする。下手をすると、このまま流されて明日は人妻、ということだってありえそうだ。
ここは気持ちをしっかりと持たなければ。
「いきなり結婚が駄目なら、まずはお友達から」
「いまさら友達からって、あり得ない気がします」
「じゃあ恋人未満から」
「未満っておかしくないですか」
「それなら、やっぱり結婚で」
「やっぱりの意味がわかりません」
「えー、だから、話は簡単でしょ。俺の気持ちは、変わらないよってこと」
そこまで言われたしまっては、こちらが悪いような気がしてくるではないか。
「そんなに簡単に言わないでください」
「簡単じゃない。実はちょっとドキドキしてた。アサギがこの手を拒否したら、立ち直れないかもーとかね」
剣士の手は、アサギの頬から動いていない。さっき引っ張った部分に何度も触れるから、くすぐったいような、恥ずかしいような気持ちになって困ってしまうくらいだ。
「剣士様のことは、嫌いじゃないですけれど。でも、好きかと言われるとわからないんです」
「じゃあさ、あいつらよりは俺のこと、好き?」
剣士と勇者たち。比べるのは難しい。
でも。
「魔物に襲われたとき、思い出したのは剣士様でした」
それだけは間違いない。
好きとか、嫌いとか、関係なく、あの時思ったのは、この目の前の男だった。
「そっか。うん、そうだったんだ」
そう言った剣士の顔は、なぜだかひどく優しげだった。
「それなら、まだ望みはあるってことだよね。……ん、待てよ」
だが、すぐに不機嫌そうに眉を潜める。
「ずーっと気になってたんだけど。なんで俺のこと剣士様って呼ぶの?」
にっこりと笑った男の目が何故か笑っていなかった。
「え、えーと」
名前を覚えていないからです。
などとは言えない。
「そういえば、カークには勇者様、ミレルには魔法使い様、ラグには賢者様って呼びかけていたよね」
「え、そ、そうでしたっけ?」
「もしかして」
男の瞳がきらりと光った。確かに光った。その目差しは、ものすごく剣呑である。
「名前、覚えていない?」
「そ、そ、そんなことはありません」
「じゃあ、俺の名前、言ってみて」
汗がだらだらと流れている。
正直、奇麗さっぱり忘れているのだ。
「……やっぱやめた」
ふいに剣士はにっこりと笑った。
絶対何か企んでいるだろうというような、笑顔だ。
「うん、面倒くさいことは、やめた。そんなことしてたら、本当に逃げられちまう」
そう言うと、彼はアサギの手をとった。
「この際、既成事実、作ろうか」
「え、ええー?」
「あの野郎に舐められた所も奇麗にしないといけないし」
剣士の目が不穏だ。
絶対よからぬことを考えている目だ。だいたい、既成事実って何? いや、わかるような気もするが、頭が拒否している。
逃げなければ、やばい。
魔物に襲われるよりも、身の危険を感じる。
そう思って、一歩後ろに下がろうと思ったが、剣士の手が離れない。
こういう場面は前にもあった気がする。
あの時も、いろいろやばかったのだ。
その時、アサギの目に、見なれた老人の姿が写った。
「そ、村長! ちょうどいいところに!」
まさに天の助け。
そう思って慌てて呼びかけたのだが。
剣士の方が行動が早かった。
「あ、村長。俺、ちょっとアサギに話があるから。屋敷には誰も近づけないで」
村長は、どこか黒い雰囲気の剣士に、引き気味になっている。彼の要求に、がくがくと不自然に頷いているし、どこか逃げごした。
これでは、助けになりそうにない。
「ひー!」
アサギはといえば、ひょいとそのまま男に担がれた。
これでは荷物だと抗議すると、この方が持つのに楽と、ものすごく理不尽なことを言われる。
「あ、それとも、女の子のあこがれ、お姫様抱っこってのがいい? 希望するならやってあげるよ」
「どっちも嫌です!」
「ちぇ、つまらないな」
村長の同情するような目差しが痛い。
「大丈夫。どんな魔物が来たって、俺がちゃんと守ってあげるよ」
「いーやーでーすー!」
「その前に、名前、しっかり覚えてもらわないとね」
笑顔が不気味だった。
「勇者様、はやく帰ってきてー」
心からの叫びに答えるものはなかった。
代わりに、剣士の鼻歌が聞こえてくる。
脳天気で、調子の外れた、腹立たしい旋律が、葬送曲に聞こえた。
その日の夜遅く帰って来た勇者たちから、魔物に勝ったと聞かされたアサギではあったが、素直に喜べなかったのはきっと、剣士のせいだ。
今でも、そう思っている。